八重山の英雄「オヤケアカハチ」

“伝説”それは、特定の人物や事物をめぐって語り伝えられ、かつてその事実が本当に起こったと信じられているもののことを言います。
本当にあったのか疑ってしまいたくなるようなことでも、伝説として語り継がれているものは、“事実”ということになるんですね。

独自の文化が根付いていて謎も多い八重山諸島に伝わる文化は奥が深いものばかり。
石垣島もその中に含まれるわけで、石垣島に語り継がれる伝説も、こんなことを言っては不謹慎なのかもしれませんが、興味をそそられてしまいます( ´艸`)

知れば知るほど奥が深く興味をそそられる話しはたくさんあるのですが、中でもいま気になっているのが、八重山の英雄といわれた豪族「オヤケアカハチ(遠弥計赤蜂)」の物語。

さっそく内容から。

それは1500年のこと。
琉球王国は第3代の“尚真王(しょうしんおう)”が権力を拡大していたのですが、それに反発した“オヤケアカハチ”は、石垣島の島民の支持をえて、琉球王国への貢ぎ物を拒否したのです。

怒った尚真王は、オヤケアカハチ征伐のために、オヤケアカハチと同じ波照間島出身で幼なじみという因縁のある豪族の“長田大主(なあたふうしゅ)”を任命。

約3000人の討伐軍を率いた長田に対して、迎え撃つオヤケアカハチの味方は村人たちのみ。これが今も語り継がれている「オヤケアカハチの乱」です。

当然敵うことはなく、追い詰められたオヤケアカハチは、最期の日の前夜に、幼なじみの長田とひそかに会い、村人たちを救うために自らが犠牲となることを志願するのです。

意をくんだ長田は翌日、オヤケアカハチを討ち取り、討伐軍が勝利を収めました。この乱を機に尚真王は八重山諸島を制圧し、1522年には与那国島を制圧して中央集権化を図り、琉球王国の最盛期を作ったのです。

簡単にまとめるとこんな感じのお話し。
結果的には負けてしまったけど、国の侵攻から現地の民俗を守ろうとしたオヤケアカハチは、地元の英雄として伝わっているのです。
結果は残せずとも気持ちは伝わっているから、オヤケアカハチは報われているのかな・・・?

石垣島には、オヤケアカハチの居住跡とされている石垣島南部の丘陵フルスト原(バル)遺跡や、長田大主の妹がオヤケアカハチの乱に協力したことで尚真王から神職を与えられ、没後に墓が祖先神をまつる御嶽(うたき)となった真乙姥(まいつば)御嶽など、このお話しに関する史跡もあるので、そういった場所を巡ってみれば、感慨深いものがあるかもしれませんね( ´艸`)