野底マーペー〜石になった青年

石垣島の南西にある港から、沖縄県最高峰の於茂登岳横目に、30kmほど北東へ行くと野底村があります。

野底村はちょうど島の裏側にあたり、目の前は東シナ海、後ろには標高282.4mの野底岳がそびえています。

周囲のなだらかな山々と比べ、山頂がひときわ細く切り立った野底岳。

麓から見上げると、他の山々より突出して高く見えます。

野底マーペーとも呼ばれ、この呼び名は、島に伝わる伝説にもとづいたものです。

むかし、黒島にマーペーという美しい娘と、カニムイというたくましい若者がいました。

2人は小さい頃から姉弟のように仲良く暮らしていました。

しかしマーペーが18歳になったある日、琉球王府の役人がやってきて、石垣島や西表島の未開の地に黒島の人たち400人を移住させると伝えるました。

マーペーの住む村の人たちは、石垣島の野底岳(ぬすくだけ)のふもとへ移されることになりました。

王府の決定に村人は従わなければいけません。

このため、マーペーは、道の向かい側に住むカニムイとわかれなければならなくなってしまいました。

野底は石垣島の裏手にある手付かずの密林地帯でした。

それでも、野底へ移った黒島の人たちと一緒に、マーペーは、いつか黒島に帰ってカニムイに再会できると信じて、毎日一生懸命働き続けました。

しかし、一度移された村人はどんなことがあっても元の島に戻ることは出来ない決まりがあったのです。

日が経つにつれてカニムイへの思いは募ります。

せめてカニムイの住む島を見ようとしても野底岳にさえぎられて、見ることができません。

ある夏のこと村をマラリアという恐ろしい病気が村を襲います。マーペーもマラリアにかかり倒れてしまった。

村では、お祭りをしてマラリアをふりはらおうとしたのです。

祭りの夜、太鼓や三味線の音が聞こえてくると、マーペーは苦しみながらもカニムイとの思い出がよみがえりたまらなくなります。

カニムイが住む黒島を一目見ようと、野底岳を登り始めました。

やっとのことで、山の頂きまで登りました。

しかし目の前には更に於茂登岳(おもとだけ)が立ちはだかっていたのです。

黒島を見ることはできません。

とうとう精魂つき果てたマーペーは、
悲しみのあまり、そのまま 山頂でそのまま祈るような姿で石になってしまいました。

石となったマーペーを憐れみ、人々は野底岳を「野底マーペー」と呼ぶようになったそうです。

そして、いま現在も人々は野底岳のことを「野底マーペー」と呼んでいるのです。

かつては「道切 り」と呼ばれる」首里王府の強制移住策 によって、同じ宮里集落で暮らしながらも引き裂かれた恋人たちがいました。

王府の役人が区画を決め、その中に住む人たちを強制移住させたのです。

そのため、マーぺーのようにすぐ隣に住んでいても、道を隔てただけで移住余儀なくされた村人もいました。

さて、 野底岳の登山コースは2つあります。

野底集落の奥にある麓からの登山道を歩けば森林浴を楽しみながら1時間ぐらいで頂上に到着できます。

案内板があるので、安心です。

もう1つは、野底林道の途中から登るコースで、約15分で山頂に着きます。

山頂は断崖絶壁になっていて、晴れた日には、平久保半島やその周りを取り囲む珊瑚礁が見渡せます。

沖縄旅行の際には訪れてみてください。

こちらは石垣島に移住したイギリス人の石垣島を紹介したサイト。

野底マーぺーを登る魅力を語っています。写真もきれいです。

http://www.ishigaki-japan.com/jp/asobu/nosoko_maapee

アイナマ石の伝説〜石になった花嫁

石垣島には、人が石になったという伝説がいくつか語り継がれています。

アイナマ石の伝説〜石になった花嫁

県道206号線を伊原間から平久保崎灯台に向かう途中、久宇良のの手前に、「アイナマ石」があり、小さな案内板が立てられています。

「アイナマ」とはかわいい花嫁を意味します。

このアイナマ石は悲しみにくれた花嫁が石になったと伝えられています。

 

むかしむかし、川平村に美しい娘が済んでいました。

年頃になった娘は、遠く離れた平久保村に嫁ぐことになりました。

川平村から行くには、原生林ののけもの道や、干潮時の海沿いを歩いて二日もかかります。婚談は親の勧めによるものでした。

娘はどうしても行いきたくないと、親おやに懇願しましたが、最後まで聞き入れられることは、ありませんでした。

そして、ついに、嫁入りの日がやって来きました。

準備を整えた花嫁とお供の人たちは、川平村に向むかって、平久保村を出発ました。

伊原間の近くに差し掛かかった時、馬に乗のっていた花嫁が、用を足しに行くと言って、馬をおり茂みのなかへと入っていきました。

なかなか戻らないので、お供の者があたりを探しましたが、花嫁の姿はどこにもありませんでした。

昼なお暗い山奥に、 座った恰好の花嫁に似た冷たい石がひっそりと立っているばかりでした。

いつしか人びとはこの石のことをアイナマ石と呼ぶようになりました。

 

アイナマ石は一時期、道路拡張によって無くなったといわれていましたが、昭和63年(1988年)に再調査をしたところ山中に残っているのが確認されました。

琉球王朝時代、平久保は隔絶された陸の孤島でした。

さらにマラリア蔓延の地と恐れられた所でもありました。

このような背景の下に「アイナマ石」の伝説も生まれたのでしょう。

このような石化伝説は、 頭税制度下で苦しんだ農民や女性たちのやり場のない悲しみと怒りが石となって伝わってくるようです。