人魚伝説

1771年、高さ50mと推定される明和の大津波が石垣島を襲い、人口が半分になるほどの被害 がありました。この津波にまつわる人魚伝説です。

むかしむかし、石垣島の北東部に野原村(ぬばれむら)という小さな村がありました。ある日村の人たちが 漁をしていると、今まで見たこともない不思議な魚が網に掛かりました。

身長は二メートル近くあって上半身は人間そっくりですが下半身には魚のひれが付いていました。

村人たちはこの大きな獲物を運んで、物知りの老人に訊ねました。

すると老人は、こう答えました。
「これはザンの魚(人魚)じゃ。ザンの魚の肉は、偉い王さまの不老長寿の薬らしいぞ」

そこで、村人たちはでさっそく料理の仕度に取り掛かりました。

するとどこかから声が聞こえていました。

「たくさんの人が死にます」

その声は、遠くから聞こえる仙人の声のような響きです。

料理の仕度を取り掛かろうとする度に声が聞こえてくるので、村人はだんだんと怖くなってきました。すると、男の子が「ザンの魚がなにかいっておる」と言いました。

人魚は目を閉じたまま、涙を流し続け、苦しそうに喘ぎながら口を動かし始めました。

「おねがいです。私の赤ちゃんがお乳を欲しがって泣いています。どうか私を海に帰してください・・・。もし逃がしてくれたら、恐ろしい海の秘密をお話します」

村人は既に恐ろしくなって、すぐに人魚を海へ帰してあげました。

すると人魚は、
「明日の朝、恐ろしいナン(津波)が村を襲います。みんな山へお逃げなさい」
と言って、海に消えました。

人魚の話を聞いた村人たちは、あわてて身のまわりのものを持って山へ避難しました。

さらに二人の若者を隣の白保村へ使わせて逃げるように言いました 。

しかし、白保村の役人はその話を信じるどころか、人魚を放してしまったことについて激しく怒っていました。

次の日の朝、村人たちが避難した山の上では、急に馬や牛、ニワトリたちが騒ぎ始めました。海を見ると、潮が見たこともないくらい引いているではありませんか。

水平線のかなたまで引いた海の水は、みるみるうちにもり上がり、巨大な水の壁となって 、ものすごい勢いで襲いかかってきたのです。

押し寄せた波は、一瞬のうちに村の家々や畑を飲み込みました。

野原村の人たちに助けられた人魚は、ときどき現れるようになりました。

子どもの人魚を抱きながら、子守唄を歌っていたということです。

この伝説が伝えられる星野は小さな集落です。

このブログでは星野の歴史や夏祭り、特産の島らっきょうとグルクンなどが紹介されています。
http://ningyonosato.isigaki.info/category/summer_festival/index.htm

野底マーペー〜石になった青年

石垣島の南西にある港から、沖縄県最高峰の於茂登岳横目に、30kmほど北東へ行くと野底村があります。

野底村はちょうど島の裏側にあたり、目の前は東シナ海、後ろには標高282.4mの野底岳がそびえています。

周囲のなだらかな山々と比べ、山頂がひときわ細く切り立った野底岳。

麓から見上げると、他の山々より突出して高く見えます。

野底マーペーとも呼ばれ、この呼び名は、島に伝わる伝説にもとづいたものです。

むかし、黒島にマーペーという美しい娘と、カニムイというたくましい若者がいました。

2人は小さい頃から姉弟のように仲良く暮らしていました。

しかしマーペーが18歳になったある日、琉球王府の役人がやってきて、石垣島や西表島の未開の地に黒島の人たち400人を移住させると伝えるました。

マーペーの住む村の人たちは、石垣島の野底岳(ぬすくだけ)のふもとへ移されることになりました。

王府の決定に村人は従わなければいけません。

このため、マーペーは、道の向かい側に住むカニムイとわかれなければならなくなってしまいました。

野底は石垣島の裏手にある手付かずの密林地帯でした。

それでも、野底へ移った黒島の人たちと一緒に、マーペーは、いつか黒島に帰ってカニムイに再会できると信じて、毎日一生懸命働き続けました。

しかし、一度移された村人はどんなことがあっても元の島に戻ることは出来ない決まりがあったのです。

日が経つにつれてカニムイへの思いは募ります。

せめてカニムイの住む島を見ようとしても野底岳にさえぎられて、見ることができません。

ある夏のこと村をマラリアという恐ろしい病気が村を襲います。マーペーもマラリアにかかり倒れてしまった。

村では、お祭りをしてマラリアをふりはらおうとしたのです。

祭りの夜、太鼓や三味線の音が聞こえてくると、マーペーは苦しみながらもカニムイとの思い出がよみがえりたまらなくなります。

カニムイが住む黒島を一目見ようと、野底岳を登り始めました。

やっとのことで、山の頂きまで登りました。

しかし目の前には更に於茂登岳(おもとだけ)が立ちはだかっていたのです。

黒島を見ることはできません。

とうとう精魂つき果てたマーペーは、
悲しみのあまり、そのまま 山頂でそのまま祈るような姿で石になってしまいました。

石となったマーペーを憐れみ、人々は野底岳を「野底マーペー」と呼ぶようになったそうです。

そして、いま現在も人々は野底岳のことを「野底マーペー」と呼んでいるのです。

かつては「道切 り」と呼ばれる」首里王府の強制移住策 によって、同じ宮里集落で暮らしながらも引き裂かれた恋人たちがいました。

王府の役人が区画を決め、その中に住む人たちを強制移住させたのです。

そのため、マーぺーのようにすぐ隣に住んでいても、道を隔てただけで移住余儀なくされた村人もいました。

さて、 野底岳の登山コースは2つあります。

野底集落の奥にある麓からの登山道を歩けば森林浴を楽しみながら1時間ぐらいで頂上に到着できます。

案内板があるので、安心です。

もう1つは、野底林道の途中から登るコースで、約15分で山頂に着きます。

山頂は断崖絶壁になっていて、晴れた日には、平久保半島やその周りを取り囲む珊瑚礁が見渡せます。

沖縄旅行の際には訪れてみてください。

こちらは石垣島に移住したイギリス人の石垣島を紹介したサイト。

野底マーぺーを登る魅力を語っています。写真もきれいです。

http://www.ishigaki-japan.com/jp/asobu/nosoko_maapee

アイナマ石の伝説〜石になった花嫁

石垣島には、人が石になったという伝説がいくつか語り継がれています。

アイナマ石の伝説〜石になった花嫁

県道206号線を伊原間から平久保崎灯台に向かう途中、久宇良のの手前に、「アイナマ石」があり、小さな案内板が立てられています。

「アイナマ」とはかわいい花嫁を意味します。

このアイナマ石は悲しみにくれた花嫁が石になったと伝えられています。

 

むかしむかし、川平村に美しい娘が済んでいました。

年頃になった娘は、遠く離れた平久保村に嫁ぐことになりました。

川平村から行くには、原生林ののけもの道や、干潮時の海沿いを歩いて二日もかかります。婚談は親の勧めによるものでした。

娘はどうしても行いきたくないと、親おやに懇願しましたが、最後まで聞き入れられることは、ありませんでした。

そして、ついに、嫁入りの日がやって来きました。

準備を整えた花嫁とお供の人たちは、川平村に向むかって、平久保村を出発ました。

伊原間の近くに差し掛かかった時、馬に乗のっていた花嫁が、用を足しに行くと言って、馬をおり茂みのなかへと入っていきました。

なかなか戻らないので、お供の者があたりを探しましたが、花嫁の姿はどこにもありませんでした。

昼なお暗い山奥に、 座った恰好の花嫁に似た冷たい石がひっそりと立っているばかりでした。

いつしか人びとはこの石のことをアイナマ石と呼ぶようになりました。

 

アイナマ石は一時期、道路拡張によって無くなったといわれていましたが、昭和63年(1988年)に再調査をしたところ山中に残っているのが確認されました。

琉球王朝時代、平久保は隔絶された陸の孤島でした。

さらにマラリア蔓延の地と恐れられた所でもありました。

このような背景の下に「アイナマ石」の伝説も生まれたのでしょう。

このような石化伝説は、 頭税制度下で苦しんだ農民や女性たちのやり場のない悲しみと怒りが石となって伝わってくるようです。

モーシーの伝説

黒島は、石垣島から南南西17kmに位置し、石垣島から高速船で25分ほどで到着します。

石垣島を旅行した際にはぜひ訪れたい島です。

この黒島は「牛の島」としても知られ 島の形がハート型なので、ハートアイランドとも呼ばれています。

さて、いまから150年ほど前、黒島の南のはずれにある仲本村に、多良間真牛(たらまモーシー)という青年がいました。

父親と一緒にサバニに乗っては西表島にわたり、農作業をしていました。

黒島では米が作れないので、人々は舟で西表島に渡り、そこで稲を植えていたのです。

ある日、真牛は、父の具合が悪いので、その日は午後から一人で西表島の畑へ出かけていきました。

ところが、同じ村の農夫が西表島に来てみると、先に来ているはずの真牛の姿がありません。

みんなで真牛を探しましたが真牛の行方は分かりませんでした。

農夫は黒島に引き返し、 真牛の家へ行きましたが、戻ってきていませんでした。

病で伏せていた父親も、じっとしていられなくなり、起き上がって、真牛の安否を気づかいます。

そこへ、となりの新城島に、黒島の舟が一艘流れついたという急報が届きました。

父親はいてもたってもいられず、村の若者たちと一緒に新城島にかけつけました。

それは間違いなく真牛父子が使っていたサバニでした。

父親はがっくりと肩を落とし、黒島へ帰り、息子の位牌をたてて、霊を弔いました。

それから半年ほどたったある日、海から一人の男が泳いできました。

それは、半年前行方不明になった真牛でした。

海で死んだはずの多良間真牛は、こうして懐かしい黒島のわが家に戻ってきたのです。

しかし、真牛は六ヶ月もの間、いったいどこでなにをしていたのでしょうか。

役人が真牛に 聞いたところ、半年間南の海のかなたにある無人島でくらしていて、毎日毎日黒島に帰りたいと願っていたそうです。

するとある日、寝ているときに、白いひげの老人が現れ、「陽が昇る頃、海へ出て背のとどくあたりまで進むが良い」といいました。

次の日お告げの通りに海へ入っていくと、急に大きな影が現れました。

必死でその影にしがみつくと、それは3メートル以上はあろうかという大きなフカ(サメ)でした。

背ビレにしがみついていると、フカは水しぶきをあげて一直線に大海原を走りだしました。

そして、黒島の珊瑚礁の近くまでくると、体を大きくゆすって海の中に消えていったということです。

こうして半年ぶりに真牛は黒島に帰ってきたのです。

この話を聞いた琉球王は、「真牛が徳の高い人間だからだろう」と、真牛の家族にたくさんの褒美をあたえました。

以来ずっと真牛の子孫や親戚はフカに感謝し、決してフカの肉を食べないそうです。

さまざまなアンガマー

一般的にアンガマーというと、ソーロンアンガマーのことを指すこと多いようですが、アンガマーには、盆に行われるソーロンアンガマーの他に、節アンガマー、家造りアンガマー、三十三年忌のアンガマーがあります。
アンガマーには大きく分けて2系統あります。
1つは石垣島の中心部で行われるもともと士族間で実施されたアンガマー、そしてもう1つが離島の農村で行われているものです。
竹富島のアンガマーもこの離島系にあたります。
歌詞や踊りの形式などは、離島系のものが古い形と考えられています。

アンガマーの名前の由来やいつごろから始められたのかははっきりしていません。
アンガマーの語源については、諸説があります。

1.姉という意味。

2. 懐かしい母という意味。

3.「○○ちゃん」などの接尾語。

4。お面をさす言葉。

5.分家という意味。

6.踊りの種類。

7.精霊とともに出てくる無縁仏。

なお、アンガマには親孝行の歌が多く、覆面をするのも「親の霊に顔向けできないが、感謝の気持ちを伝えたい」という意味があるのではと推測されるため母という意味の可能性が高いようです。

竹富島のアンガマーは、かすりの着物に頬かむりといういでたちで、各家の庭で三線と笛にのせて舞い踊られる素朴さが魅力の盆踊りです。
石垣島のアンガマーではウシュマイ(お爺さん)とンミ(お婆さん)が登場し、問答を行いますが、竹富島や黒島など離島のアンガマーはウシュマイ、ンミーは出てきません。
家々を訪問しても、庭先で輪になって踊るだけ、珍問答はありません。
また石垣島では ウミとウシュマイやそれらの子孫にあたるファーマーや見物人たちは、各家の座敷に上がりますが、竹富島では各家の座敷に上がるのは地人(じひと)と呼ばれる三線、笛、太鼓などの楽器を演奏する人のみで、 ショーロガナシを供養する踊りは庭で奉納されます。
その後には「六調節」などで、見物人と一緒に乱舞をして締めくります。

最近では、竹富青年会がエイサー隊や仮装隊を演じてショーロ場を盛り上げるようになってきました。
直前まで秘密裏に練習を進めます。
青年会のメンバーやこの日のために島に帰省した若者も参加して盛り上げます。

竹富島には、西地区、東地区、中筋地区3カ所でアンガマーで行われていたようですが、中筋のアンガマーは消滅してしまい、現在は西地区と東地区で行われています。

ソーロンアンガマー

ソーロンアンガマーは、八重山地方に伝わる旧盆行事です。  
ソーロンとは八重山のことばで「お盆」のこと。
精霊から転じてソーロンになっており、盆にお迎えする祖先の霊を指しているそうです。
石垣島では旧盆の日、あの世(グソー)からウシュマイ(翁)とンミー(姥)が、ファーマー(子孫)を連れて、現れ新盆を迎える家々を訪問。
珍問答や踊りなどで祖先の霊を供養します。

アンガマーの一行は、旧盆の3日間、日が沈む夕方ごろから始まり、一日に3~5件の家庭を訪問します。
ウシュマイとンミーはクバ(ビローやしの葉)の扇を手にし、花子とともに、独特の裏声で珍問等をしながら、家々を訪問します。
訪問先は、新盆を迎える家を中心に、新築の家などさまざま。訪問先とは前もって打ち合わせてあるので、突然訪問することはありません。
家に着くとまず、仏壇にウートートー(拝み)を始めます。それから、花子たちの踊り、ウシュマイとンミーの踊りが披露されます。
そして、ウシュマイとンミーの珍問答が始まります。
最後に、家の人も巻き込んでカチャーシーを行います。

旧盆の三日間行われあの世からの使者アンガマーはあの世に帰るウークイの日の日付が変わる前に訪問を終え、アンガマーの行事は終わる。

一軒の訪問時間は1時間程度で、アンガマー一行の人数は20名程度です。
ウシュマイ、ンミーは面をファーマーは、顔を手ぬぐいなどで覆い、頭には花をあしらったクバ笠をかぶります。踊り隊や三線を弾く人もいます。
珍問答は、基本的にあらかじめ決まった人が、ウシュマイとンミーに質問します。
質問内容も、打ち合わせされていますが、即興で即答しているように演じて見物人を笑わせます。
質問の内容は仏壇の飾り棚の数、線香の数の意味、死後にどこに行くのかなどがお盆に関するものです。
質問する人は、手ぬぐいなどで顔を隠したり、建物の影に隠れて裏声で質問します。
あの世から来たウシュマイとンミーに顔を見られて、連れて行かれないようにしているのです 。
ウシュマイとンミーが登場したのは19世紀後半から20世紀初頭と推定されています。
始まりは無縁仏が、門前のお供え物を拾うときに、恥ずかしいから面を被って拾ったという説。老夫婦が祖先の霊と一緒に飢餓を供養したことに始まったという説。アジア から伝わってきたという説があります。
歌の中には、念仏や供養を示すものも多く、沖縄本島のエイサーと同じように日本から渡来した念仏踊りを起源とする説があります。
地元独自の踊り、風習が結びついたのでしょう。
念仏歌とともに、本州の盆踊りと通じているようです。

現在、アンガマーは、地元青年会を中心にしたメンバーで受け継がれています。
アンガマーが訪問する家々の予定は、 八重山毎日新聞など、前日の新聞にて発表されます。
また道に出て耳を済ませば三線と笛の音色が聞こえてくるので、その音を頼りに探し出すこともできます。
運が良ければ沖縄旅行のついでに見学できるかもしれませんね。

赤馬(あかんま)の伝説

赤馬(あかんま)の伝説
馬と飼い主の絆を描いた伝説です。

現在ではこの伝説をテーマにしたお祭り「 あかんまフェスタ」も行われています。

むかし、大城師番という 役人が住んでいました。

ある日、師番が名蔵湾の北、シィーラ原の海沿いを歩いていると、 子馬が浜辺をさまよっていました。

子馬の毛は、普通の赤馬の毛よりもっと赤く、ベンガラをまぶしたような色をしていました。

自分の子を亡くしている師番は、「ここで会ったのも、何かのめぐり合わせに違いない」と思い連れて帰りました。

師番は、その子馬を我が子のように大切に育てました。

子馬は大きく気品にみちた名馬に成長し、赤馬の愛称で呼ばれました。 赤馬には主人の心が、すべてわかるようなのです。

やがて、そのうわさは琉球王国・尚貞王まで届き、馬を献上せよという命令が下されました。
名誉なことでしたので嬉しく思うと同時に別れの寂しさも感じていましたが馬を連れて、はるばる八重山から首里までやってきました。

尚貞王は、美しい赤馬に満足し、乗ってみることにしました。

しかし、赤馬は暴れ出して、尚貞王を振り落とそうとしました。
怒った王は、「こんな馬は殺してしまえ!」と家来に怒鳴りました。
馬役人が慌てて師番を呼び寄せます。師番が近づいてくると、今まで暴れていた馬はすぐにおとなしくなり、師番を乗せて矢のように走ります。

その姿に心を動かされた王は、師番に褒美を取らせ、八重山に帰るようにいいました。
このことで、赤馬の話はますます有名になり、遠く九州の薩摩の殿様から馬を差し出すよう命令がきました。

師番は身を切られる思いで赤馬を薩摩の殿様に献上することにし、島の港まで見送りに行きました。

船が出ると途端に急に天気が崩れ、大嵐が船を襲いました。赤馬は 綱を切って海に飛び込み、 力の限り泳いで、なんとか島までたどり着くと、師番のもとへ走りました。

師番は赤馬の蹄の音に気付き、愛馬と再会を果たします。しかし赤馬はもう疲れきっていました。師番の顔を見つめると、静かに目を閉じて、崩れるように息を引き取りました。

赤馬が琉球王国に召されたときと、琉球王国から褒美をもらって帰るときに作った師番の歌は「赤馬節」として、 今でも、おめでたいよろこびの歌として、歌われています。

別れの日に船に乗せられて行く赤馬を見送った場所は「馬見盛」と呼ばれ、現在は赤馬の碑が建てられています。
赤馬の公園は、市街地から国道390号線を北上し宮良橋を渡り、宮良集落手前の坂道の途中の海側にあります。

さてそんな赤馬伝説に思いをはせながら、石垣島で乗馬を楽しんではいかがでしょう。
引き馬コースや、ビーチを爽快に駆け抜ける外乗コースなど幅広い層の方が安心して楽しめる、海岸乗馬専門の牧場「波ん馬」のサイトはこちら。馬に乗って海岸を散歩してみましょう。沖縄旅行の良い思い出になるはず。
http://naminma.com/index.php?FrontPage