竹富島が浮き上がった

 1771年大津波が八重山諸島を襲った。八重の島々に甚大な被害を模様した大津波は「明和の大津波」とよばれています。石垣を始め宮古島、八重山で死者約1万2千人に及ぶ被害をもたらした。
 しかし不思議な事に竹富島だけは全く被害を受けなかった。この事実に当時の竹富の人々は「津波のとき島が浮き上がって助かったと誇り、且つ説明したという。大浜(石垣島)でも竹富島は津波のとき島が浮き上がったという伝承が残されている」と考えていたそうです。
 もちろん島が浮くことなんて物理的にはありえないことですが当時の島民にはそうでもしなければ被害がなかったことへの説明がつかずこのような伝説ができたと考えられる。

後の調査でこの現象の理由は石垣島から東方海上までのびている優勢な珊瑚礁、ウマヌファピー、アーサピー、ユクサンピーが天然の防波堤の役割をはたしたことで奇跡的に被害が出なかったという説が最も有力なようです。
竹富島より北西、後方にある小浜島、鳩間島でも、ごく少ない犠牲しか出ていないことからも近海のサンゴが津波の勢いを弱めてくれた考えられそうです。

石垣島の津波石

 津波の押し波が高い水圧で海中の巨石を運び、高い波によって陸地まで打ち上げます。このような石を津波石といいます。
 沖縄県の先島諸島の海岸や内陸には津波石が多く残っています 1771年に八重山地震と言われる大きな地震が起こりました。石垣島はこの地震の影響で大きな津波に襲われました。 このとき襲った津波のエネルギーは、巨大な岩を動かすほどで、東の海から押し寄せた津波が運んだ 津波石が今も島の東海岸に残されています。表面に木々が生い茂っていて大きなサンゴ石だとは分かりにくくなっていますが、近寄って見ると、大な石だと分かることもあります。

 八重山地震 は、1771年4月24日午前8時ごろに起こりました。震源地は 石垣島の南南東35km付近の北緯24.0、東経124.3度、 )でマグニチュード7.4、震度は4程度ほどありました。地震の揺れによる被害はほとんどありませんでしたが、この地震により大きな津波が発生し、石垣島や宮古島でたくさんの溺死者が出ました。津波の高さは、2m~3mと推定されています。このことから、「津波地震」または「海底地滑りによる津波」ではないかと言われています。
 「海底地滑りによる津波」とは、長年かけて積もった堆積物が、地震の振動をきっかけに、海溝などの更に深い海に落ちる事によりおこる現象です。 またこの大津波に襲われる前の八重山地方の人口は3万人弱でしたが、 2万人までに減少してしまいます。その後明治に至るまで人口は減少し続けました。明治時代の初期には、1万人程度まで人口が減ってしまいます。津波によって八重山の田畑が冠水したことで、土地の疲弊ガ起こり、飢饉や疫病等により多くの人が死んだためではないかと推測されます。

先島諸島の津波石は、実際には明和の大津波ではなく、それ以前の津波によって打ち上げられたものも多いようです。 石垣島大浜の崎原公園には「津波大石(つなみうふいし)」と呼ばれる長径12.8m、短径10.4m、高さ5.9mの 琉球石灰岩の岩塊があります。この岩のサンゴ化石の最新部の炭素14年代は2000~3000年前を示すことから、八重山地震津波以前に現在の位置に打ち上げられたと考えられています。

石垣島の東海岸にある津波石群については、2012年11月に国の文化審議会が 文部科学大臣に天然記念物に指定するよう答申されました。 「琉球列島の海岸を特徴づけるサンゴ礁の一つであるとともに、わが国最大の台礁群」として、名所的・学術的価値が高いと評価されたためです。 指定されるのは大浜の崎原公の「津波大石」、 大浜の畑地にある「高こるせ石」、伊野田の畑地にある「あまたりや潮荒(すうあれ)」、平久保半島安良の浜辺にある「安良大かね(やすらうふかね)」の4つ。 このうち「安良大かね」はサンゴ石ではなく火山岩の一種の流紋岩で鉄分が多いため赤く見えます。明和の大津波で50メートル以上移動したとされています。