タコラサー石

沖縄で生活している人からしたら当たり前の場所でも、住んでいない人からしたら一度は行ってみたいと思うのが沖縄!
沖縄にはたくさんの離島があるのですが、そのひとつが石垣島。那覇市から南西に410kmくらい離れていて、台湾からは270kmくらいしか離れていないから台湾の方が近いし、日本だけど日本じゃないような、そんな気がしてしまうような島。
沖縄県内では沖縄本島、西表島に次いで3番目に広い島で、景色がきれいだし、青い海がきれいだし、石垣島鍾乳洞やマンタスクランブル、桃林寺などたくさんの観光スポットがあり、見どころもたくさんあるから、ぜひとも一度は訪れてほしい島!

そんな石垣島にも、言い伝えや伝説といった類の話しがたくさんあるのですが、ちょっとした言い伝えのある場所のひとつに「タコラサー石」という大きな石があります。
ということで今回の主役は、宮良地区高台のタフナー原にある「タコラサー石」ですよ~^^

「タコラサー石」には、“明和の大津波で生き残った人たちがたいまつの明かりを頼りに寄り集まった”という言い伝えがあります。

「明和の大津波」とは、1771年4月24日の午前8時頃に、八重山・宮古諸島を襲った大津波のことで、日本近海で歴史上最大級の津波災害をもたらせたと言われています。
もともと大津波が起こった原因は地震でした。地震の震源地は、石垣島・白保崎の南南東約40kmの海底で、地震の規模はマグニチュード7.4。地震の揺れによる被害は、一部の建物や石垣が崩れるなど比較的軽いものでしたが、大津波が発生したためにたくさんの溺死者が出たのです。

この日、野良仕事で集落の外にいて難を逃れた運天築登之(ちくどぅん)と、御用布を蔵元に納付するために宮良村を離れていて難を逃れた外本御嶽の神司・大久ウナリの2人が、津波の後にこの石に辿り着き、日が暮れかけてからたいまつを焚いていたら、その明りを頼りに生存者が集まってきたので、生存者の救護や食糧の調達をして、一時期共同生活を送ったと言われています。
何日かして村跡へ下りたのですが、この出来事が縁で運天筑登之と大久ウナリは結ばれ子どもをもうけました。長男は運天家、次男は大久家を継ぐことになり、運天家と大久家が今も続いているのは、このことがはじまりなのだとか・・・。

なので、タコラサー石のある場所は、宮良村の生存者たちが集まって共に生活し再起を図った場所でもあるし、運天、大久両家の縁結びの地でもあるんだそうですよ^^

 

◎おすすめの沖縄旅行 プラン

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人魚像の訴え

きっと皆さん大好きな沖縄~^^!!まさに“国内のバカンス地”であり、年間通してたくさんの人たちが楽しむために・・癒されるために・・・訪れている場所!!
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沖縄本島の観光地で思いっきり、ショッピングや観光スポットで遊んだり、あるいはレンタカーを借りて気ままにドライブを満喫したり♡
どのように過ごすかは“皆さん次第”なのですが、少し変わったTRIP!!“沖縄伝説ツアー巡り”なんていかが^^?

沖縄には、たくさんの「伝説話」があるのを知っていますか^^?
それが本当のことなのか・・あるいはでっちあげの嘘だったのか・・・今も尚、真実はハッキリわかっていないのがほとんどですが、そこがまた新たな疑惑も浮上して、更に興味ひくものとなるのです。

“面白い伝説”“少し怖い伝説”など色々ある中で、今回私が紹介するのは「人魚伝説」
以前にも一度紹介していますが、この人魚伝説にもいくつか違う話が存在しています。

沖縄県・石垣島“川平湾”にひっそりと居座っている人魚の像・・・。遠目から見つけると「何!?少し不気味だなぁ!!」と感じてしまうもの。
そして、近くへ行って見てみると、母親と娘が寄り添っているような銅像が!!しかし、その母親は下半身が人魚の姿をしています。子供は人間なのですが・・・。何も知らずに見ていても“何処か意味深な感じがしてしまうハズ”

さて、この“人魚伝説”の一説を少しお話しましょう^^

昔、島の漁師の網に“人魚”がかかっていたそうな。その人魚は、漁師に「どうか逃がしてください!!その代わりに、人魚の秘密を教えますから」と強くお願いしました。その漁師は、運よく心優しい人だったので、素直に人魚を逃がしてあげます。そうすると人魚は「もうすぐ大津波がやっくるのですぐに逃げてください」と言いました。その言葉を素直に信じた漁師は、早速“高台”へと逃げて、信じなかった村人たちは、津波にのまれて亡くなってしまったそうな・・・。

この話にも、いくつかの説があります。

島によっては“網にかかったのは人魚の子供”だったり“仲間の人魚が助けに来る”など。そして、この伝説の話は“宮古諸島”“八重山諸島”沖縄本島全体へと広まっているんだそう。世間一般の“噂話”でさえ、真実とはかけ離れたものが広まったりしますし、それと同じように伝説の話も、色々な架空の嘘が広まってしまうのでしょうね!!

ちなみに、宮古諸島の下地島に伝わる人魚伝説は、身体を半分食べられてしまった人魚を救うために、仲間の人魚が津波を起こして、下地島の住民全員が波に飲まれて死んだ・・・。というもの。

結局、訴えたいことは「津波が恐ろしい」というところなのかもしれません!!現在、日本は“いつ・どこで”巨大地震が起こってもおかしくない、と言われています。この銅像は言葉を発することは出来ませんが「気を付けて!!」と訴えているように思えませんか??

見たことのない方は、是非!!石垣島へ訪れた際には会いに行ってみて下さいね!!

石垣島の津波石

 津波の押し波が高い水圧で海中の巨石を運び、高い波によって陸地まで打ち上げます。このような石を津波石といいます。
 沖縄県の先島諸島の海岸や内陸には津波石が多く残っています 1771年に八重山地震と言われる大きな地震が起こりました。石垣島はこの地震の影響で大きな津波に襲われました。 このとき襲った津波のエネルギーは、巨大な岩を動かすほどで、東の海から押し寄せた津波が運んだ 津波石が今も島の東海岸に残されています。表面に木々が生い茂っていて大きなサンゴ石だとは分かりにくくなっていますが、近寄って見ると、大な石だと分かることもあります。

 八重山地震 は、1771年4月24日午前8時ごろに起こりました。震源地は 石垣島の南南東35km付近の北緯24.0、東経124.3度、 )でマグニチュード7.4、震度は4程度ほどありました。地震の揺れによる被害はほとんどありませんでしたが、この地震により大きな津波が発生し、石垣島や宮古島でたくさんの溺死者が出ました。津波の高さは、2m~3mと推定されています。このことから、「津波地震」または「海底地滑りによる津波」ではないかと言われています。
 「海底地滑りによる津波」とは、長年かけて積もった堆積物が、地震の振動をきっかけに、海溝などの更に深い海に落ちる事によりおこる現象です。 またこの大津波に襲われる前の八重山地方の人口は3万人弱でしたが、 2万人までに減少してしまいます。その後明治に至るまで人口は減少し続けました。明治時代の初期には、1万人程度まで人口が減ってしまいます。津波によって八重山の田畑が冠水したことで、土地の疲弊ガ起こり、飢饉や疫病等により多くの人が死んだためではないかと推測されます。

先島諸島の津波石は、実際には明和の大津波ではなく、それ以前の津波によって打ち上げられたものも多いようです。 石垣島大浜の崎原公園には「津波大石(つなみうふいし)」と呼ばれる長径12.8m、短径10.4m、高さ5.9mの 琉球石灰岩の岩塊があります。この岩のサンゴ化石の最新部の炭素14年代は2000~3000年前を示すことから、八重山地震津波以前に現在の位置に打ち上げられたと考えられています。

石垣島の東海岸にある津波石群については、2012年11月に国の文化審議会が 文部科学大臣に天然記念物に指定するよう答申されました。 「琉球列島の海岸を特徴づけるサンゴ礁の一つであるとともに、わが国最大の台礁群」として、名所的・学術的価値が高いと評価されたためです。 指定されるのは大浜の崎原公の「津波大石」、 大浜の畑地にある「高こるせ石」、伊野田の畑地にある「あまたりや潮荒(すうあれ)」、平久保半島安良の浜辺にある「安良大かね(やすらうふかね)」の4つ。 このうち「安良大かね」はサンゴ石ではなく火山岩の一種の流紋岩で鉄分が多いため赤く見えます。明和の大津波で50メートル以上移動したとされています。

人魚伝説

1771年、高さ50mと推定される明和の大津波が石垣島を襲い、人口が半分になるほどの被害 がありました。この津波にまつわる人魚伝説です。

むかしむかし、石垣島の北東部に野原村(ぬばれむら)という小さな村がありました。ある日村の人たちが 漁をしていると、今まで見たこともない不思議な魚が網に掛かりました。

身長は二メートル近くあって上半身は人間そっくりですが下半身には魚のひれが付いていました。

村人たちはこの大きな獲物を運んで、物知りの老人に訊ねました。

すると老人は、こう答えました。
「これはザンの魚(人魚)じゃ。ザンの魚の肉は、偉い王さまの不老長寿の薬らしいぞ」

そこで、村人たちはでさっそく料理の仕度に取り掛かりました。

するとどこかから声が聞こえていました。

「たくさんの人が死にます」

その声は、遠くから聞こえる仙人の声のような響きです。

料理の仕度を取り掛かろうとする度に声が聞こえてくるので、村人はだんだんと怖くなってきました。すると、男の子が「ザンの魚がなにかいっておる」と言いました。

人魚は目を閉じたまま、涙を流し続け、苦しそうに喘ぎながら口を動かし始めました。

「おねがいです。私の赤ちゃんがお乳を欲しがって泣いています。どうか私を海に帰してください・・・。もし逃がしてくれたら、恐ろしい海の秘密をお話します」

村人は既に恐ろしくなって、すぐに人魚を海へ帰してあげました。

すると人魚は、
「明日の朝、恐ろしいナン(津波)が村を襲います。みんな山へお逃げなさい」
と言って、海に消えました。

人魚の話を聞いた村人たちは、あわてて身のまわりのものを持って山へ避難しました。

さらに二人の若者を隣の白保村へ使わせて逃げるように言いました 。

しかし、白保村の役人はその話を信じるどころか、人魚を放してしまったことについて激しく怒っていました。

次の日の朝、村人たちが避難した山の上では、急に馬や牛、ニワトリたちが騒ぎ始めました。海を見ると、潮が見たこともないくらい引いているではありませんか。

水平線のかなたまで引いた海の水は、みるみるうちにもり上がり、巨大な水の壁となって 、ものすごい勢いで襲いかかってきたのです。

押し寄せた波は、一瞬のうちに村の家々や畑を飲み込みました。

野原村の人たちに助けられた人魚は、ときどき現れるようになりました。

子どもの人魚を抱きながら、子守唄を歌っていたということです。

この伝説が伝えられる星野は小さな集落です。

このブログでは星野の歴史や夏祭り、特産の島らっきょうとグルクンなどが紹介されています。
http://ningyonosato.isigaki.info/category/summer_festival/index.htm