アカハチ物語

八重山諸島をご存知でしょうか。石垣島、小浜島、鳩間島、竹富島、黒島、西表島、由布島、新城島、波照間島の石西礁湖周辺の島々、その西に位置する与那国島の10の有人島、またその周辺の無人島から成り立っています。

今回は、1500年頃にこの八重山諸島で起こった事件について話したいと思います。

 

昔々、波照間島で生まれたオケヤアカハチという男がいました。彼は石垣島の大浜村に移り住み、その村の豪族の長田大浜の娘と結婚。

彼は次第に勢力を伸ばしていき、八重山を取り仕切っているものと言えばオケヤアカハチだと言われるほどにまでなりました。

そんな八重山と敵対していたのが宮古を支配していた仲宗根豊見親(なかそねとぅゆみゃ)。

そしてまたオケヤアカハチ、仲宗根豊見親ともに琉球王府とも敵対関係にありました。

ですが、当時の琉球王府の力は絶対的なもの。

彼らは琉球王府にひざまずくか、戦うのかという選択を迫られます。

 

その結果、仲宗根豊見親は琉球王府の家臣に、オケヤアカハチは王府の敵となる覚悟を決めました。

そのため、王府の尚真(しょうしん)王はオケヤアカハチを反逆者とし討ち取ることを決めました。

この時に征討軍が編成されたのですが、もちろんそのメンバーのリーダーは仲宗根豊見親になります。

彼らは石垣島に上陸し、いよいよ大きな戦が始まりました。この戦のことを『オケヤアカハチの乱』と呼んでいます。

オケヤアカハチ率いる八重山勢 対 仲宗根豊見親率いる宮古勢と王府勢の戦さ。結果、オケヤアカハチは王府勢軍によって敗北し、琉球王府の支配下に入ることとなりました。

そもそも、琉球王府の反逆者として仕立てられた理由にはいくつかの説があり「昔から八重山に伝わっていた神への信仰を禁止されたため」「貢納を拒んだため」「仲宗根豊見親とオケヤアカハチとの戦に王府が介入したため」などと言われており、一番有力な説は「琉球王府と敵対していた宮古と八重山を戦わせて、一気に支配下にするため」だと言われています。

こうした背景を見ていただければ、オケヤアカハチは決して自分が強いんだということを主張するために王府に敵対していたわけではなく、自分や民衆のことを守るために戦っていたということがわかります。

また彼は、戦いに敗れたあとも王府の侵略から民族を守ろうと必死に活動しました。

そのことで、オケヤアカハチはみんなの英雄だと言われるようになり石垣島の長浜には≪オケヤアカハチの像≫が建てられています。

沖縄旅行の際に、ぷらっと石垣島の英雄の像を観て歴史に触れるのももいいかもしれませんよ。