アカフチとティラ石

伊原間には「赤口(アカフチ)」という獅子がいるのですが、このアカフチは伊原間の南西にある大浦山をにらむように座っています。というのも、大浦山にはティラ石と呼ばれているとても大きな石があります。そのティラ石には魔物が住んでいると信じられているため、魔除けの意味でアカフチがティラ石をにらむように座っているのです。
ティラ石に魔物が住んでいると言われるようになったいきさつと、アカフチがティラ石をにらむようになったいきさつを少しお話しましょう。
その前に「伊原間(いばるま)」とは、石垣島の北部に位置している石垣島でいちばん細いところのことです。東側は太平洋、西側は東シナ海と東西で違う海に面していて豊かな自然に囲まれた所なんです。

それでは本題へといきましょう。
1792年頃のことだと言われています。この当時の伊原間は台風や干ばつの影響で農作物は枯れてしまい、食べ物もなくなって、たくさんの人たちが餓えに苦しみ亡くなってしまう人もいました。
さらに追い打ちをかけるかのように疫病まで流行り、村の人たちの生活は苦しくなるいっぽうでした。いずれおさまるだろうという希望を抱きながらやり過ごし時は流れていけども、何年たとうが生活はぜんぜん良くならず、村の人たちは何かの祟りではないかと思うようになっていきました。
「ティラ石の方から人だまが飛んできて村に落ちた」、「ティラ石に魔物が住んでいるに違いない」、「その魔物が伊原間村に災いをもたらしている」などといったさまざまな噂があっという間に村中に広がりました。こうしてティラ石は魔物の住む石といわれ災いのもとといわれるようになったのです。それから村の人たちは御嶽へ行きお祓いをしましたが、災いは絶えませんでした。

そんな時に村を訪れたフンシーミー(風水見)が「ティラ石に魔物がいるのなら、魔物に打ち勝つ強い獅子を作り、その獅子に神の力が宿るように祈りなさい。」と言ったのです。それを聞いた村の人たちは、赤い口が耳元まで裂けた獅子を作ってティラ石の方を向けて置きました。そしてその獅子に神の力が宿り村を守ってくれるように祈ったのです。

それからというもの、村では作物がよく育つようになり、疫病も治まり、村の人たちの生活も良くなっていったそうです。
ティラ石から村を守ってくれている赤い口をした獅子を「赤口(アカフチ)」と呼び、今でも大切にしています。
ちなみに今の赤口は3代目なんだそうです。何事も大切に思う気持ちが大切で、その思いが願いに届くのかもしれませんね。

 

木々の由来:竹富島

昔々、神さまが八重山の島々を作った時、島には木が一本も生えていませんでした。
そこで神様は八重山の島々を緑の島にするために、木々を呼び集めました。
まず最初にやっていたのが、福木。続いて、松・桑が、少し遅れてアダンと竹とクバが来ました。

島にやってきた木々たちはやはり皆がいいところに住みたいので「ここはオレの場所だ!」「あっちへ行け」とけんかをはじめました。

それを見かねた神様は木々にこう言いました。

一番最初のにやって来て、丈夫な幹をした福木には、
「お前の上部で大きな身体で、人間の家を風や火から守りなさい。」
次の、松には
「お前の美しい体で人の住む村の周りを囲い、病魔や悪霊から村を守りなさい。」

三番目の桑には
「お前の葉は、大風が来たらすぐに落ちるから、屋敷の中や庭畑に生えて、人間や小鳥を助けなさい。」

遅れたアダンと竹とクバには、
「アダンは海岸が削られないように、島を守りなさい。竹は天から降ってきた雨水をゆっくり下に下ろすように根をできるだけ広げなさい。クバは、その大きな葉でうちわやツルベになって世のためにつくしなさい。」

そこに、ソテツが大遅刻でやってきて、神はソテツに
「お前は、遅れてきたからもう残っている場所はない。そこの岩だらけの土地で我慢しなさい。」

神がもう帰ろうかという時にまたさらに遅れてアコウとガジマルがやって来ました。

神は怒って、
「お前たちは勝手に石でも抱いてろ。」

と言い放ち帰って行きました。

それで、ガジマルとアコウは今でも石に抱きついているそうです。

真世加那志(まゆんがなしー)

 真世加那志(まゆんがなしー)とは、川平で陰暦9月の戊戌(つちのえいぬ)の日前後に行われる節祭りに来訪する神です。青年たちが覆面をして蓑・笠をつけてこの神に仮装し、家々を回って豊作・幸運を祈ります。

石垣島の昔話では、この神にまつわる物語があるので紹介したいと思います。

それは、のちに川平の村に合併された仲間村がまだ一つの村であったくらい
昔むかしの時代の節祭りの日でした。

村の賑わう祭りの日の夕刻に、北の海で難船して みすぼらしい格好をした旅人が命からがら辿り着いた家に
「今晩泊めてほしい」と懇願して回っていました。

お祭りで浮足立っていた村人は、旅人を泊めるどころか相手にもしませんでした。

村の南端にある一軒に 最後の一途の望みをかけて旅人は訪れました。
「村のすべての家を回ったが断れつづけ、最後にここに辿り着きました。どうか一晩だけでも泊めてもらえないだろうか。」
と聞いて家の主人は同情をして
「このような貧しい家でもよかったら。」
と答えたのでした。
「ほかの家は賑やかですが、この家は少し淋しい気がいたします。何か理由でもあるのでしょうか。」
と旅人が尋ねると
「たしかに貧しくても、私は火と水さえあれば満足なのですよ。」
と主人は答えました。

夜中になって ふと目を覚ました主人は庭で神詞を唱える旅人を見ました。
とても恐縮した主人は、唱え終わった旅人に
「こんなものしか ありませんが。」
とお茶を出すと、旅人はこう語りました。
「私は人間ではありません。天の神の命を受け、心正しき人間に諸物づくりの福を授けるために使いに来ました。
 あなたは必ずこの先幸福になりますよ。来年、戊戌(つちのえいぬ)の日にまた来ます。」

すると旅人の姿が瞬時に見えなくなってしまいました。

旅人の宣言通り、この主人の作物は常に豊作が続き牛や馬を買えるようにもなりました。
神とその天使に対する感謝を忘れることなく再会の日を迎えました。
天の使いに深々と頭を下げて心からお礼の意をあらわし、また来年の再会を約束したのでした。

なおも大豊作が続き家運もますます上昇すると、村人は繁栄する様子を不思議がるようになりました。
そして主人から真世加那志の天使の来訪や神詞を授けてもらったことを聞きました。

村人全員が天の神への信仰を切望している旨を、3年目の来訪の際に伝えると天の使いは
「村全体の神の信仰こそ、私天の使いの目的です。これからはもう来訪するには及びません。
 神の代理として…」
と神詞の朗唱のやり方をこと細かに伝えたのでした。
そして天の使いは たくさんの土産と共に満足そうに姿を消したのでした。

伝説のフルーツ「島バナナ」

沖縄では家の軒先にバナナの木が生えている場合があり、それを「島バナナ」と島民は呼んでいるが、「島バナナ」

輸入物のバナナの10倍以上のお値段がするのです。
その10倍の値段の秘密は、島バナナは、沖縄県民しか知らない伝説のフルーツなので、まず流通量が少ないことがあげられます。農家さんが生産してはいるものの生育が非常に難しく生産量も低いためめったに県外には流通しない。島バナナの旬の時期は9月~10月頃で、その時期というのは同時に台風も多い時期。島バナナのきは通常の樹木とは異なり、繊維質であるため強い風が吹くと次々となぎ倒されてしまうのです。台風が当たりやすい地域なので、台風が接近する度に島バナナの被害が出てしまい、強い台風が直撃するとその年のバナナが全滅ということも珍しくありません。
生産量は一向に増えないのです。

さてさて、味は・・・。
泥棒が持っていってしまうほどおいしい!と地元の人がいうほど!
日頃見る輸入バナナと比べれば4分の1ほどとサイズも小さいのですが、
濃厚な強い甘みと、ほどよい酸味がもたらす奥行きのある味わいなのです。
島バナナには、微妙な酸味もあり人によっては「マスカットのような芳香と味わい」「フルーティー南国の味わい」などおいしさは一度食べたら忘れられないおいしさなのです。

 

そんな石垣島の特産の島バナナが味わえる場所を紹介します。

・川平おみやげ店
島バナナ生ジュースが飲めれます。濃い目の味で甘さもしっかりしているジュースです。他には、サーターアンダギーサンデーや、カツ丼もおいしい!
住所:沖縄県石垣市川平913
TEL:0980-88-2222
営業時間:9時~18時
定休日:不定休
駐車場:有り

・バナナカフェ
島バナナケーキが頼めます。石垣にはカフェとお酒が頼める場所は少ないので、ここは若い人に利用しやすいカフェです。
住所:沖縄県石垣市大川269-8 1F
TEL:0980-88-7690
営業時間:11時30分~16時
     17時~翌3時
定休日:木曜日

犬と香炉:竹富島

昔むかし、犬は三本足で生まれてきました。歩くことが非常に不自由で食べ物を探すのにも苦労していました。
ある日、神様が犬の近くをお通りになりました。犬は大変喜び、思い切って神様にお願いいたしました。
「神様お願いです。三本足では歩くことも不自由で食べ物を探すのも大変苦労しております。もう一本くだされば、自由に歩いて食べ物を求める事ができます。どうぞ、お願いです。神様のお力でもう一本のお恵みください。」

神様は犬のことがたいそう不憫に思い、すぐに何とかしてやろうと考えた。そして四本足のある香炉をお呼びになり、こう話した。

「香炉よ、お前は三本足でも不自由はない。お前の役目は十分に果たせるから、三本足で困っている犬に足を一本あげてはどうだろうか?」と神はお尋ねになった。

香炉は、神様の話を快く聞き入れ、一本の足を神様に差し上げました。

神様より新しい足を一本頂いた犬は大変大喜びしました。

それからは自由に歩くことが出来るようになり、犬は神様から頂いた足を大事にし、おしっこするときに大事な足を濡らしては申し訳ないと思い片足を高くあげておしっこをするようになったようです。

パイパティローマ

波照間島という島の名は。「果てのうるま」つまり、沖縄の一番端にある島という意味だとわかっています。

しかし、島の老人たちは、

「いや、ここは沖縄の南の果ての島ではない。実は、この波照間島の南にもう一つ島がある。その四島の人は争いもない平和で実り豊かなパイパティローマだ。」

というのです。

八重島の言葉で「パイ」は「南」、「パティローマ」とは「波照間」を意味します。
つまり「パイパティローマ」とは「南波照間島」という事になります。

伝承では、島の西にのはずれにある屋古村のアカマリという男が中心となり、村人40-50人を率いてマーラン船を奪って南の海へ脱出したと言われています。

琉球国は、明治になって沖縄県となりましたが、明治25年1月島の人たちから、「南波照間島に言った屋古村のもの達に会ってみたい」と言われ、県知事は海軍省に頼んだが、結局その島は見つけることができませんでした。

しかし、今でもなお島の老人たちは自分たちの住む南の彼方に自分たちと同じ血を引くものが住む「南波照間島」という、平和で実り豊かな島があると信じているのです。

アヒャーマ綱

以前このブログの中でもご紹介した四カ字豊年祭(http://ishigakilegend.net/pury.html)。

この祭りの中で『アヒャーマ綱(アヒャー綱)』というイベント(?)が催されます。

このアヒャーマ綱の誕生にも深いお話があるようです。

昔々、新川村と石垣村というように分けられていなかった頃のお話です。

あるところに、誰もが認める航海術を持った青年がいました。

彼は誰よりも迅速かつ慎重に海を渡ることができたので、琉球王府に貢物を届けるといった大事な役目は彼が担っていました。

そんな彼を村の人たちは「ウネトウジ」と読んでいました。

このウネとは船、トウジとは船頭のことです。

このトウジには妻がいました。

船乗りの夫の安否はいつも心配でたまりません。

彼女は毎日、真乙姥御嶽の神様に夫の無事を祈っていました。

そんな夫思いの彼女だったのですが、ある日失明してしまいます。

そのため生活面でも困難になることもあったり、船乗り時の祈祷にも行けずに困った夫妻は相談して第二夫人をもうけることになったのです。

それからは、トウジが船乗りする時は二人の妻が祈祷に行くようになりました。

こんなの現代だったら許されない行為ですよね!

妻たちはどんな気持ちだったんだろう・・・という私の個人的な感想は置いておきましょう。

そんなある日、トウジが遭難してしまいました。

1年経っても音信は途絶えたままでした。二人の妻は来る日も来る日も真乙姥御嶽へ祈祷に参り、「もし無事に帰ってきたら恩返しに綱引きをする」と祈願しました。

数日後、本妻が「長崎の方向に灯りが見える。夫が帰ってきたのではないか。」と言いました。

先ほども述べたように本妻は失明してしまっている身。

「盲目の本妻が見えたのなら神様の知らせではないですか。」と第二夫人はこたえます。

そして翌朝、浜に行ってみると、なんと夫の船が帰っていたのです。

2人の妻は大喜びで、真乙姥御嶽へ向かいました。

綱引き用の綱がなく、井戸の紐を外して縄を作り綱引きをしました。

その後、彼女らに倣い、船乗りの妻たちは夫の安全を祈って願掛けをし、無事に帰ってきたらお礼参りをして綱引きをするようになりました。

なにはともあれ、めでたしめでたしです。

アヒャーマ綱のアヒャーとは女性、マは愛称のようです。

この話のように妻たちがすることから「貴婦人の綱引き」なんて呼ばれていたりもするそうです。

現在でも女性だけで綱引きを行なわれていますが、結構な迫力があります。

よく子どもの運動会でPTAたちが綱引きをしたりしますが、そんな感じの迫力です。

大人の綱引きってなんだかスゴイ。

綱引きひとつにもこんな良い話があるなんて、やっぱり石垣島は奥が深い。

こんなことも踏まえて、沖縄旅行でアヒャーマ綱を観に行くのもいいのではないでしょうか。

 

アカハチ物語

八重山諸島をご存知でしょうか。石垣島、小浜島、鳩間島、竹富島、黒島、西表島、由布島、新城島、波照間島の石西礁湖周辺の島々、その西に位置する与那国島の10の有人島、またその周辺の無人島から成り立っています。

今回は、1500年頃にこの八重山諸島で起こった事件について話したいと思います。

 

昔々、波照間島で生まれたオケヤアカハチという男がいました。彼は石垣島の大浜村に移り住み、その村の豪族の長田大浜の娘と結婚。

彼は次第に勢力を伸ばしていき、八重山を取り仕切っているものと言えばオケヤアカハチだと言われるほどにまでなりました。

そんな八重山と敵対していたのが宮古を支配していた仲宗根豊見親(なかそねとぅゆみゃ)。

そしてまたオケヤアカハチ、仲宗根豊見親ともに琉球王府とも敵対関係にありました。

ですが、当時の琉球王府の力は絶対的なもの。

彼らは琉球王府にひざまずくか、戦うのかという選択を迫られます。

 

その結果、仲宗根豊見親は琉球王府の家臣に、オケヤアカハチは王府の敵となる覚悟を決めました。

そのため、王府の尚真(しょうしん)王はオケヤアカハチを反逆者とし討ち取ることを決めました。

この時に征討軍が編成されたのですが、もちろんそのメンバーのリーダーは仲宗根豊見親になります。

彼らは石垣島に上陸し、いよいよ大きな戦が始まりました。この戦のことを『オケヤアカハチの乱』と呼んでいます。

オケヤアカハチ率いる八重山勢 対 仲宗根豊見親率いる宮古勢と王府勢の戦さ。結果、オケヤアカハチは王府勢軍によって敗北し、琉球王府の支配下に入ることとなりました。

そもそも、琉球王府の反逆者として仕立てられた理由にはいくつかの説があり「昔から八重山に伝わっていた神への信仰を禁止されたため」「貢納を拒んだため」「仲宗根豊見親とオケヤアカハチとの戦に王府が介入したため」などと言われており、一番有力な説は「琉球王府と敵対していた宮古と八重山を戦わせて、一気に支配下にするため」だと言われています。

こうした背景を見ていただければ、オケヤアカハチは決して自分が強いんだということを主張するために王府に敵対していたわけではなく、自分や民衆のことを守るために戦っていたということがわかります。

また彼は、戦いに敗れたあとも王府の侵略から民族を守ろうと必死に活動しました。

そのことで、オケヤアカハチはみんなの英雄だと言われるようになり石垣島の長浜には≪オケヤアカハチの像≫が建てられています。

沖縄旅行の際に、ぷらっと石垣島の英雄の像を観て歴史に触れるのももいいかもしれませんよ。

◆川平の豊年祭「びっちゅる石」の伝説

川平の4つ御嶽の、浜崎御嶽、群星御嶽、山川御嶽、赤イロ目宮鳥御嶽。このうち赤イロ目宮鳥御嶽では、大きな石を持ち上げて境内を回る「びっちゅる」という儀式がおこなわれます。毎年、豊年祭の日に石へ供物を捧げ、石を境内の中央に出します。
 奉納される石の重さは60キロといわれるが、定かではありません。この石は、つるつるした川石のようにも見えますが、伝説では海で投網にかかっている石で、成長する石といわれています。

150年ほど前、豊年祭のお供えのの魚を取りに海へ行き、投網を投げたところ、何度も同じ石がかかったことから、これは何かあると考えて、その石を豊年祭に奉納したのが始まりと言われています。以来、毎年豊年祭のときに、石を持ち上げて、皆に披露するために石を担いでいました。石は、不思議なことにい少しづつ大きく成長し、現在の大きさになったと伝えられます。

かつては、村の力自慢の青年が石を担いでいました。奇数回、境内を石を持ち上げて回ることになっていて、石を途中で落とせば、凶作になるとされます。 
びっちゅる石は60キロあるといわれますが、計量してはいけないとされています。かつて、黙って計った人がいたそうですが、村中の人から制裁を受けたという。この長い石は、抱きかかえてしか担げません。しかも、肩に背負ってから奇数回、回らなくてはいけないのでどんな力自慢も苦戦するそうです。

 10年ほど前は、担ぐ人が少なく、飛び入りも歓迎されていたようだが、今は担ぎ手も増え、氏子が優先されるため、誰もが担げる物ではないようです。

島の北西部に位置する川平湾は、石垣島の市街地から車で約40分に位置し、観光客でにぎわう人気の景勝地となっています。現在、川平地域では、豊年祭をはじめ、結願祭(きつがんさい)、節祭(しちぃさい)など一年を通して26の行事が行われています。豊年祭や結願祭では、棒術や踊りなどを楽しむことができますが、節祭、秋の夜に静かに厳かに行われ、写真撮影は禁止となっています。

四カ字豊年祭

旧暦の六月、八重山の各島々では豊年祭が行われます。豊年祭は五穀豊穣を神に感謝するとともに地域住民の健康祈願をするお祭りです。
石垣島の新川、登野城、石垣、大川地区が合同で行う四カ字(しかあざ)豊年祭(プーリィ)は、八重山各地で行われている豊年祭の中で最大規模のものです。
台風などの自然災害、悪霊たちの魂を鎮める、神を敬うなどの人々の切実なる願いがさまざまな形で込められ演じられています。

石垣の市街地を取り囲む、四ヶ字と呼ばれる新川、登野城、石垣、大川地区はもともとはひとつの集落でした。1675年、石垣村が登野城村に分かれ、その後、登野城村から大川村、石垣村から新川村が分離しました。

四カ字の豊年祭が何時の頃から始められたのか、正確には分かりません。現在のような形で四ヵ字豊年祭が行われるようになったのは1780年頃からともいわれています。明治26(1893)年に八重山を訪れた笹森儀助の「南島探検」に祭りの様子が記されています。また、真乙姥御嶽及びその周辺で繰り広げられる村プール(豊年祭)に関する記述は明治32(1899)年に確認されています。さらに大正6年8月5日の「先島新聞」では
「去る七月三十一日四個の新川御嶽の前で穂利祭(豊年祭)を行った。」とあります。記事によると、「豊年祭祝典並びに旗頭・巻踊り奉納(奉納願)・五穀の種子授けの儀」「アヒャーマ綱」「ツナヌミン」「大綱曳」と現在と同じように展開されていたようです。
祭りは2日間行われます。初日は各字にある御嶽で行われるその年の収穫物への感謝儀礼で御嶽(オン)ですることからオンプール(オンプーリィ)、2日目は新川にある真乙姥まいつば御嶽で行われる翌年の豊年を願う予祝儀礼で村をあげて行うことからムラプール(ムラプーリィ)といいます。

ムラプーリィは新川にある真乙姥(まいつば)御獄でのエンヌユーニガアイで始まります。この先一年の豊年などの祈りを込め、旗頭、太鼓隊、巻踊を奉納します。鮮やかで、竿も長く、デザインが豊かな八重山の旗頭は、各字が持ち寄った奉納物のひとつ。村々の祈りが込められたさまざまな旗文字が書かれています。

請福 ふくをこう  福の世を請い願う
祈豊 いのるゆたか 豊穣を祈る
天恵豊 てんけいゆたか 天の神々の恵みが豊かさをもたらし、来夏世の豊作を祈る。
瑞雲 ずいうん 恵みの雨をもたらし豊穣であるように
祈豊穣 いのるほうじょう 穀物がよく実ること
五風十雨 ごふうじゅうう ものを潤し育てる恵みの雨
豊潤 ほうじゅん 豊かな潤いを祈る
和衷協力 わちゅうきょうりょく 心から協力し合い平和を願う
弥勒世 みるくゆ  人の世の災禍を払い、人々に幸福をもたらす
瑞雲慈雨 ずいうんじう 瑞雲を呼び、慈雨に恵まれ万物の豊かさを祈る
庶穂 しょすい 甘庶の順調な生育を祈る

巻踊りの『マキ』は、血族を中心としたグループを指し、マキ踊りは血族の踊りとも言われます。
踊りの先頭は男童二人が持つ竹笹に旗をくくった標旗(しるしがた)です。
巻踊りの後は旗頭、太鼓などがあり、女達のガーリィ(乱舞)が行われます。これは神を向かえるための鎮魂と祭祀空間の清浄のためです。