竹富島が浮き上がった

 1771年大津波が八重山諸島を襲った。八重の島々に甚大な被害を模様した大津波は「明和の大津波」とよばれています。石垣を始め宮古島、八重山で死者約1万2千人に及ぶ被害をもたらした。
 しかし不思議な事に竹富島だけは全く被害を受けなかった。この事実に当時の竹富の人々は「津波のとき島が浮き上がって助かったと誇り、且つ説明したという。大浜(石垣島)でも竹富島は津波のとき島が浮き上がったという伝承が残されている」と考えていたそうです。
 もちろん島が浮くことなんて物理的にはありえないことですが当時の島民にはそうでもしなければ被害がなかったことへの説明がつかずこのような伝説ができたと考えられる。

後の調査でこの現象の理由は石垣島から東方海上までのびている優勢な珊瑚礁、ウマヌファピー、アーサピー、ユクサンピーが天然の防波堤の役割をはたしたことで奇跡的に被害が出なかったという説が最も有力なようです。
竹富島より北西、後方にある小浜島、鳩間島でも、ごく少ない犠牲しか出ていないことからも近海のサンゴが津波の勢いを弱めてくれた考えられそうです。

モーシーの伝説

黒島は、石垣島から南南西17kmに位置し、石垣島から高速船で25分ほどで到着します。

石垣島を旅行した際にはぜひ訪れたい島です。

この黒島は「牛の島」としても知られ 島の形がハート型なので、ハートアイランドとも呼ばれています。

さて、いまから150年ほど前、黒島の南のはずれにある仲本村に、多良間真牛(たらまモーシー)という青年がいました。

父親と一緒にサバニに乗っては西表島にわたり、農作業をしていました。

黒島では米が作れないので、人々は舟で西表島に渡り、そこで稲を植えていたのです。

ある日、真牛は、父の具合が悪いので、その日は午後から一人で西表島の畑へ出かけていきました。

ところが、同じ村の農夫が西表島に来てみると、先に来ているはずの真牛の姿がありません。

みんなで真牛を探しましたが真牛の行方は分かりませんでした。

農夫は黒島に引き返し、 真牛の家へ行きましたが、戻ってきていませんでした。

病で伏せていた父親も、じっとしていられなくなり、起き上がって、真牛の安否を気づかいます。

そこへ、となりの新城島に、黒島の舟が一艘流れついたという急報が届きました。

父親はいてもたってもいられず、村の若者たちと一緒に新城島にかけつけました。

それは間違いなく真牛父子が使っていたサバニでした。

父親はがっくりと肩を落とし、黒島へ帰り、息子の位牌をたてて、霊を弔いました。

それから半年ほどたったある日、海から一人の男が泳いできました。

それは、半年前行方不明になった真牛でした。

海で死んだはずの多良間真牛は、こうして懐かしい黒島のわが家に戻ってきたのです。

しかし、真牛は六ヶ月もの間、いったいどこでなにをしていたのでしょうか。

役人が真牛に 聞いたところ、半年間南の海のかなたにある無人島でくらしていて、毎日毎日黒島に帰りたいと願っていたそうです。

するとある日、寝ているときに、白いひげの老人が現れ、「陽が昇る頃、海へ出て背のとどくあたりまで進むが良い」といいました。

次の日お告げの通りに海へ入っていくと、急に大きな影が現れました。

必死でその影にしがみつくと、それは3メートル以上はあろうかという大きなフカ(サメ)でした。

背ビレにしがみついていると、フカは水しぶきをあげて一直線に大海原を走りだしました。

そして、黒島の珊瑚礁の近くまでくると、体を大きくゆすって海の中に消えていったということです。

こうして半年ぶりに真牛は黒島に帰ってきたのです。

この話を聞いた琉球王は、「真牛が徳の高い人間だからだろう」と、真牛の家族にたくさんの褒美をあたえました。

以来ずっと真牛の子孫や親戚はフカに感謝し、決してフカの肉を食べないそうです。

さまざまなアンガマー

一般的にアンガマーというと、ソーロンアンガマーのことを指すこと多いようですが、アンガマーには、盆に行われるソーロンアンガマーの他に、節アンガマー、家造りアンガマー、三十三年忌のアンガマーがあります。
アンガマーには大きく分けて2系統あります。
1つは石垣島の中心部で行われるもともと士族間で実施されたアンガマー、そしてもう1つが離島の農村で行われているものです。
竹富島のアンガマーもこの離島系にあたります。
歌詞や踊りの形式などは、離島系のものが古い形と考えられています。

アンガマーの名前の由来やいつごろから始められたのかははっきりしていません。
アンガマーの語源については、諸説があります。

1.姉という意味。

2. 懐かしい母という意味。

3.「○○ちゃん」などの接尾語。

4。お面をさす言葉。

5.分家という意味。

6.踊りの種類。

7.精霊とともに出てくる無縁仏。

なお、アンガマには親孝行の歌が多く、覆面をするのも「親の霊に顔向けできないが、感謝の気持ちを伝えたい」という意味があるのではと推測されるため母という意味の可能性が高いようです。

竹富島のアンガマーは、かすりの着物に頬かむりといういでたちで、各家の庭で三線と笛にのせて舞い踊られる素朴さが魅力の盆踊りです。
石垣島のアンガマーではウシュマイ(お爺さん)とンミ(お婆さん)が登場し、問答を行いますが、竹富島や黒島など離島のアンガマーはウシュマイ、ンミーは出てきません。
家々を訪問しても、庭先で輪になって踊るだけ、珍問答はありません。
また石垣島では ウミとウシュマイやそれらの子孫にあたるファーマーや見物人たちは、各家の座敷に上がりますが、竹富島では各家の座敷に上がるのは地人(じひと)と呼ばれる三線、笛、太鼓などの楽器を演奏する人のみで、 ショーロガナシを供養する踊りは庭で奉納されます。
その後には「六調節」などで、見物人と一緒に乱舞をして締めくります。

最近では、竹富青年会がエイサー隊や仮装隊を演じてショーロ場を盛り上げるようになってきました。
直前まで秘密裏に練習を進めます。
青年会のメンバーやこの日のために島に帰省した若者も参加して盛り上げます。

竹富島には、西地区、東地区、中筋地区3カ所でアンガマーで行われていたようですが、中筋のアンガマーは消滅してしまい、現在は西地区と東地区で行われています。

ソーロンアンガマー

ソーロンアンガマーは、八重山地方に伝わる旧盆行事です。  
ソーロンとは八重山のことばで「お盆」のこと。
精霊から転じてソーロンになっており、盆にお迎えする祖先の霊を指しているそうです。
石垣島では旧盆の日、あの世(グソー)からウシュマイ(翁)とンミー(姥)が、ファーマー(子孫)を連れて、現れ新盆を迎える家々を訪問。
珍問答や踊りなどで祖先の霊を供養します。

アンガマーの一行は、旧盆の3日間、日が沈む夕方ごろから始まり、一日に3~5件の家庭を訪問します。
ウシュマイとンミーはクバ(ビローやしの葉)の扇を手にし、花子とともに、独特の裏声で珍問等をしながら、家々を訪問します。
訪問先は、新盆を迎える家を中心に、新築の家などさまざま。訪問先とは前もって打ち合わせてあるので、突然訪問することはありません。
家に着くとまず、仏壇にウートートー(拝み)を始めます。それから、花子たちの踊り、ウシュマイとンミーの踊りが披露されます。
そして、ウシュマイとンミーの珍問答が始まります。
最後に、家の人も巻き込んでカチャーシーを行います。

旧盆の三日間行われあの世からの使者アンガマーはあの世に帰るウークイの日の日付が変わる前に訪問を終え、アンガマーの行事は終わる。

一軒の訪問時間は1時間程度で、アンガマー一行の人数は20名程度です。
ウシュマイ、ンミーは面をファーマーは、顔を手ぬぐいなどで覆い、頭には花をあしらったクバ笠をかぶります。踊り隊や三線を弾く人もいます。
珍問答は、基本的にあらかじめ決まった人が、ウシュマイとンミーに質問します。
質問内容も、打ち合わせされていますが、即興で即答しているように演じて見物人を笑わせます。
質問の内容は仏壇の飾り棚の数、線香の数の意味、死後にどこに行くのかなどがお盆に関するものです。
質問する人は、手ぬぐいなどで顔を隠したり、建物の影に隠れて裏声で質問します。
あの世から来たウシュマイとンミーに顔を見られて、連れて行かれないようにしているのです 。
ウシュマイとンミーが登場したのは19世紀後半から20世紀初頭と推定されています。
始まりは無縁仏が、門前のお供え物を拾うときに、恥ずかしいから面を被って拾ったという説。老夫婦が祖先の霊と一緒に飢餓を供養したことに始まったという説。アジア から伝わってきたという説があります。
歌の中には、念仏や供養を示すものも多く、沖縄本島のエイサーと同じように日本から渡来した念仏踊りを起源とする説があります。
地元独自の踊り、風習が結びついたのでしょう。
念仏歌とともに、本州の盆踊りと通じているようです。

現在、アンガマーは、地元青年会を中心にしたメンバーで受け継がれています。
アンガマーが訪問する家々の予定は、 八重山毎日新聞など、前日の新聞にて発表されます。
また道に出て耳を済ませば三線と笛の音色が聞こえてくるので、その音を頼りに探し出すこともできます。
運が良ければ沖縄旅行のついでに見学できるかもしれませんね。

赤馬(あかんま)の伝説

赤馬(あかんま)の伝説
馬と飼い主の絆を描いた伝説です。

現在ではこの伝説をテーマにしたお祭り「 あかんまフェスタ」も行われています。

むかし、大城師番という 役人が住んでいました。

ある日、師番が名蔵湾の北、シィーラ原の海沿いを歩いていると、 子馬が浜辺をさまよっていました。

子馬の毛は、普通の赤馬の毛よりもっと赤く、ベンガラをまぶしたような色をしていました。

自分の子を亡くしている師番は、「ここで会ったのも、何かのめぐり合わせに違いない」と思い連れて帰りました。

師番は、その子馬を我が子のように大切に育てました。

子馬は大きく気品にみちた名馬に成長し、赤馬の愛称で呼ばれました。 赤馬には主人の心が、すべてわかるようなのです。

やがて、そのうわさは琉球王国・尚貞王まで届き、馬を献上せよという命令が下されました。
名誉なことでしたので嬉しく思うと同時に別れの寂しさも感じていましたが馬を連れて、はるばる八重山から首里までやってきました。

尚貞王は、美しい赤馬に満足し、乗ってみることにしました。

しかし、赤馬は暴れ出して、尚貞王を振り落とそうとしました。
怒った王は、「こんな馬は殺してしまえ!」と家来に怒鳴りました。
馬役人が慌てて師番を呼び寄せます。師番が近づいてくると、今まで暴れていた馬はすぐにおとなしくなり、師番を乗せて矢のように走ります。

その姿に心を動かされた王は、師番に褒美を取らせ、八重山に帰るようにいいました。
このことで、赤馬の話はますます有名になり、遠く九州の薩摩の殿様から馬を差し出すよう命令がきました。

師番は身を切られる思いで赤馬を薩摩の殿様に献上することにし、島の港まで見送りに行きました。

船が出ると途端に急に天気が崩れ、大嵐が船を襲いました。赤馬は 綱を切って海に飛び込み、 力の限り泳いで、なんとか島までたどり着くと、師番のもとへ走りました。

師番は赤馬の蹄の音に気付き、愛馬と再会を果たします。しかし赤馬はもう疲れきっていました。師番の顔を見つめると、静かに目を閉じて、崩れるように息を引き取りました。

赤馬が琉球王国に召されたときと、琉球王国から褒美をもらって帰るときに作った師番の歌は「赤馬節」として、 今でも、おめでたいよろこびの歌として、歌われています。

別れの日に船に乗せられて行く赤馬を見送った場所は「馬見盛」と呼ばれ、現在は赤馬の碑が建てられています。
赤馬の公園は、市街地から国道390号線を北上し宮良橋を渡り、宮良集落手前の坂道の途中の海側にあります。

さてそんな赤馬伝説に思いをはせながら、石垣島で乗馬を楽しんではいかがでしょう。
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